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広島地方裁判所 昭和53年(行ウ)11号 判決

原告 川西チエ子

被告 広島労働基準監督署長

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告が昭和四九年八月二九日付で原告に対してなした労働者災害補償保険法(以下労災法という)に基づく遺族補償給付の不支給決定を取消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告の内縁の夫であつた訴外間下勇(以下亡勇という)は、昭和四九年一月二九日広島市宇品港沖で通船作業中労災事故により死亡した。

2  原告は被告に対して労災法による遺族補償給付請求をしたが、亡勇の戸籍上の妻である訴外間下知恵子(以下知恵子という)からも同様の請求がなされ、被告は知恵子に対して支給決定をなし、原告に対しては昭和四九年八月二九日付で不支給決定(以下本件処分という)をなした。

3  しかしながら、知恵子と亡勇との間の婚姻関係は二〇年以上にわたつて実体を失つており、他方、原告は亡勇と一八年以上にわたつて事実上夫婦として生活をしてきたものであるから、同法一六条の二第一項括弧書にいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当する。従つて、遺族補償給付の受給権者は原告であつて、被告の認定は誤つている。

4  原告は、同法三五条により、広島労働者災害補償保険審査官に審査請求したところ、同審査官は、昭和五〇年三月二〇日付をもつてこれを棄却したので、さらにこの決定を不服として労働保険審査会に再審査請求したが、同審査会も昭和五三年二月二八日付をもつてこれを棄却した。

5  よつて、原告は被告に対し本件処分の取消しを求める。

二  請求原因に対する認否

請求原因1のうち亡勇が原告の内縁の夫であつたことは争い、その余は認める。同2、4の事実は認め、同3の事実は争う。

三  被告の主張

1  労災法一六条の二の受給権者たる妻には、法律上の妻がある場合に事実上の婚姻生活に入つたものを含まない。

同条一項括弧書の「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む」とは、夫婦としての事実上の婚姻関係があつてただ届出のみを欠いている者をいうと解すべきである。既に法律上の妻がいる者と事実上の婚姻関係にあつた者は、法律上の妻との間に離婚がなされない限り法律上の婚姻の届出をなし得ないものであつて、法律上保護され得ない重婚関係であり、公序良俗に反するものである。同条項も法律上の妻とは別にあるいは法律上の妻を排除して事実上の婚姻関係を保護しているものではない。

2  仮に、法律上の婚姻関係が実体を失つた場合は事実上の婚姻関係があつた者に受給権があるとの見解に従うとしても、本件においては以下の如く知恵子と亡勇との間の婚姻関係の実体は失われていないから、受給権者は知恵子である。

(一) 亡勇と知恵子は昭和一五年九月六日婚姻し、二男二女をもうけたが、亡勇は勤務先の経営困難によりやむを得ず昭和三〇年ころ広島市へ出稼ぎに行つたもので知恵子と仲違いをしたためではない。

(二) 亡勇は原告らと通船業を営むようになつてからは月平均二、〇〇〇円ないし五、〇〇〇円を知恵子に送金し、昭和四五年ころ子供らが広島に来るようになつてからは同女の生活費として月平均二万円を託していた。また、広島カキなどの季節のものや子供の服や靴等も再三送つていた。

(三) 亡勇は、昭和三六年行なわれた長女の結婚式や昭和四三年行なわれた長男の結婚式には父親として出席し、年に一、二回程度、特に祭りの時など知恵子のもとへ帰省していた。

(四) 本件事故に際しては、長男が亡勇の遺体捜索をなし、その葬儀も行なつた。その遺骨は、知恵子と長男が協力して知恵子の兄の生家の墓地に納骨した。

四  被告の主張に対する原告の認否及び主張

1  被告の主張1は争う。

2  被告の主張2の事実は争う。

亡勇と知恵子との婚姻関係の実体は失われていた。

(一) (被告の主張2の(一)に対するもの)亡勇が広島へ行く際、知恵子はともに行くことを拒否しており、そのころより同女は亡勇と同居協力する意思を失つていた。

(二) (被告の主張2の(二)に対するもの)亡勇が学資や季節のものを送つていたことは認めるが、これは知恵子の兄や亡勇の兄弟に宛てて送つたもので知恵子に宛てたものではない。

(三) (被告の主張2の(三)に対するもの)亡勇が原告と同棲後岡山県に行つたのは亡勇の妹の夫の母親の葬儀と観光旅行の二回にすぎず、いずれも原告も同行しており、亡勇と知恵子は一八年間一度も会つていない。

(四) (被告の主張2の(四)に対するもの)亡勇の遺体捜索や葬儀は原告においてなし、知恵子はなんら関与していない。

(五) 原告は昭和二九年ころ亡勇と知り合い昭和三二年ころから同棲し、共同で原告所有の機船で通船業を営んでおり、亡勇から知恵子と離婚するつもりでいるからもう少し待てという話を聞いていた。現に住民登録や納税申告や国民健康保険などにおいては、原告は配偶者あるいは未届の妻として届出られている。

また、原告は亡勇の兄弟や子供及びその家族らとも親しく交際していた。

第三証拠〈省略〉

理由

一  請求原因1の事実(但し、亡勇が原告の内縁の夫であつた点を除く)、同2、同4の各事実は当事者間に争いがない。

二  原告は、亡勇の法律上の妻ではなかつたが労災法一六条の二第一項括弧書にいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に当り、亡勇の配偶者として同項所定の遺族補償給付の受給権者に該当する旨主張しているのに対し、被告は、本件原告のように、法律上の妻がある場合に事実上の婚姻生活(いわゆる重婚的内縁関係)に入つた者まで右に含まないなど主張して争つているので、以下この点について判断する。

1  元来、労災法一六条の二第一項括弧書の趣旨は、他に婚姻関係のない男女が結婚して事実上全く法律上の夫婦と変らぬ婚姻生活を継続している場合、なんらかの事情で婚姻の届出をしていなかつたため法律上同項本文所定の被災者の配偶者とみられないような場合を予定したものと解され、一般には、被災者に法律上の妻があるような場合に被災者と重婚的に内縁関係に入つたような者は含まないものと解される。

ただ、被災者に法律上の妻があるような場合でも、その妻の長期行方不明、生死不明、またその妻が他の男性と長期間に亘り重婚的内縁関係を継続しているような場合などで、被災者との婚姻関係は全く形骸化していて単に婚姻届出のみが残続もしくは離婚届出がなされないのみの状況にあり、実質的には法律上の離婚があつたのと同視し得るような状況の場合は、被災者に法律上の妻がない場合と同視して、前記同項括弧書の適用を考慮し得るものと解されよう。

そこで、このような観点から以下本件の事実関係につき検討してみる。

2  成立に争いのない甲第七号証、甲第八号証、甲第一四号証の二、四、甲第一五ないし第一七号証、乙第三号証、乙第一四号証、乙第一七号証、乙第二〇号証の一、乙第二二号証、乙第二四号証、文書の内容、形態等から真正に成立したと認められる甲第九号証、甲第一一号証、乙第一〇号証、乙第一三号証、証人間下知恵子の証言により真正に成立したものと認められる乙第一八号証の二、証人間下勉の証言により真正に成立したものと認められる乙第二〇号証の三、証人間下知恵子、同山田登、同間下勉の各証言及び原告本人尋問の結果によると、次の事実を認めることができる。

(一)  亡勇(大正五年五月三〇日生)は、知恵子(大正二年三月二二日生)と昭和一五年九月六日婚姻し、二男二女(昭和一五年九月一〇日長男奨、昭和一七年八月二日長女志津恵、昭和一九年八月一三日二女清恵、昭和二三年九月二日二男博義)をもうけたが、戦時中呉から岡山へ疎開し、岡山県川上町において知恵子の実兄訴外山田登が経営する鉱山(山田鉱業所)に勤務し、妻子ともども右実兄方に同居して平穏に生活していたところ、昭和二九年ころ、右鉱山が経営不振のため閉山となつたことから、亡勇はその働口を求め、当時広島に住んで潜水業を営んでいた亡勇の実兄静夫を頼つて単身広島に赴いた。

(二)  右広島に赴く際、亡勇が知恵子ら家族を同伴しなかつたのは、子供達がいずれも幼いうえ、広島での生活の目処もたたなかつたことなどからであつて、夫婦間の仲違い等が原因ではなかつた。

(三)  一方、原告(大正一〇年一〇月一四日生)はそのころ父親とともに小型船胡子丸を所有して広島港内において通船業を営んでいたが、たまたま亡勇を雇つたことから知り合い、父も病気で倒れ、亡勇を頼つているうちたがいに親しさを増し、昭和三二、三年ころから原告と亡勇は同棲するようになり、その後、両名でアパートを借りて住むなどして引続き亡勇が死亡するまで夫婦同然の生活を継続した。なお、原告と亡勇の間には子供は無く、また、原告は亡勇と知り合つた頃から亡勇には既に法律上の妻子がいることを熟知していた。

(四)  原告と亡勇は、原告が昭和三〇年から小型船舶操従士の免許を有していたことから原告所有にかかる小型船胡子丸を利用して共同で通船業を営んでいたが、昭和四四年に広島通船株式会社が設立されてからは、原告らは右共同での通船業を廃止し、原告はその所有船を右会社に貸与し、亡勇は右会社に勤めるなどして、原告らの生計を維持していた。

(五)  原告は亡勇に対してしばしば知恵子と離婚して自己を正式の妻としてくれるよう求めていたが、亡勇は「子供達が大きくなるまで待て。」と言つて延引するのみで、子供達がいずれも成長した後も原告を籍に入れようとしたことはなく、また、知恵子に対し離婚を求めたり、知恵子やその親族との間で離婚について協議しようとしたこともなかつた。

(六)  亡勇は、広島に赴いて二、三ケ月した後ころから、末子博義が高校を卒業した昭和四一年ころまで相当の期間知恵子のもとへ毎月ではないが月に二、〇〇〇円から五、〇〇〇円程度の金額の送金を続け、その後は送金は途絶えたものの、子供達が訪れて来る度に金品を託したり、また、亡勇が死亡する前の年くらいまで、妻子や妻の実兄登などに対して広島カキなどの季節のものや衣類等を再三送つていた。

(七)  亡勇は、広島に出て後、昭和三二年ころから子供達が成人するころまでの間は、知恵子のもとに年に一、二回祭のときに帰つたり、また盆、正月に帰つたり帰つて来なかつたりの状態であつたが、その後は、子供達が広島の自己のもとへしばしば訪れるようになつたこともあつて知恵子のもとへは次第に帰らなくなつた。

(八)  亡勇の昭和四六年から同四八年までの所得税の確定申告書の記載によると原告は「間下チエコ」名で亡勇の控除配偶者として扱われており、また、原告の国民健康保険被保険者証では原告が世帯主亡勇の未届の妻たる世帯員として扱われており、さらにまた、住民票の記載によると亡勇と原告はたがいに未届の夫、妻として同一世帯に属するものとされている。

(九)  原告は亡勇とともに亡勇の親族の者の結婚式や葬式などにも出席し、亡勇の子供達も再三原告らのアパートを訪れては宿泊するなどし、さらに、亡勇の親族の者らと手紙のやりとりをするなどもしていた。

(一〇)  知恵子は、亡勇が広島へ出た後は、亡勇からの送金や兄の農業を手伝うなどしてその生計を維持し、四人の子供を養育したが、昭和四三、四年ころ亡勇と原告との関係を知つて後も種々案じたものの、夫亡勇との間に格別の波乱もなく比較的平穏に経過した。なお知恵子には亡勇と離婚する意思は終始まつたく無かつたものとみられる。

以上の事実が認められる。

原告本人尋問の結果のうち右認定に反する部分は措信しがたく、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

3  右認定事実からしてみるに、なるほど、原告と亡勇とはその同棲を始めた昭和三二、三年ころから亡勇死亡に至る昭和四九年まで約一七年間もの長きにわたり、ほぼ夫婦同然の内縁関係を継続したものとみられ、一方、亡勇とその法律上の妻知恵子との間はほとんどその実質を伴わない夫婦関係にあつたものとみられる。

しかしながら、亡勇と知恵子との間の行き来が途絶えていたわけではなく、むしろその子供ら親族を介してはかなり密な関係が継続されており、知恵子に終始亡勇との離婚の意思のなかつたのはもとより、亡勇についても、知恵子とはつきり離婚して原告を法律上の妻とする意思まであつたとはみられない状況で、これらからすると、亡勇と知恵子との婚姻関係が前説示のごとく全く形骸化していて婚姻の届出のみが残続し、実質的には法律上の離婚があつたのと同視し得るような状況にあつたものとまでは到底認めがたいところで、したがつて、本件はいわゆる重婚的内縁関係にあるものというべく、原告は前記労災法一六条の二第一項括弧書所定の者(妻)には該当しないものといわざるを得ない。

そうすると、原告が右に該当しないものとして、その遺族補償給付の請求に対し不支給とした被告の本件処分にはなんら違法はないものといえる。

三  以上の次第により、被告が原告に対してなした本件処分は正当で、これが取消しを求める原告の本訴請求は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 渡辺伸平 三浦宏一 浅野秀樹)

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